気づけば、時計の針は十二時を回っていた。今頃、良い子で寝ている子どもたちの枕元に、サンタクロースがプレゼントを置いて回っている頃だろう。わたしの元には来ていなかった。
サンタクロースを信じて待つ年頃はとうに過ぎていた。だが、クリスマスそのものに夢や希望を抱かなくなったというにはまだ早い。むしろ周囲の同級生たちは、やれ年上の彼と過ごすだの、やれブランドバッグを買ってもらうだの、浮き足だった話題で持ちきりだったように思う。
わたしが幼稚部から通っている現在の私立中学校は、都内有数のお嬢様学校であり、生徒たちも品行方正、不純異性交友を行う生徒も滅多にいなかった。だが、女子校という狭い世界に閉じ込められた年頃の娘たちがそう言った話に興味がないかといえば、全く逆であった。むしろ将来を見据えた親公認の交際として、自分よりも一回り以上年上の男性と食事に出かけたり、同じく有名私立の男子校の生徒と放課後のデートを重ねたり、積極的かつ堂々とした付き合いを行うものも少なくはなかった。よくやるものだとわたしは遠巻きに見ていたけれど、今年ばかりはそれが少し羨ましく感じていた。
言うまでもない。はるかの存在があったからだ。
夏が過ぎて秋の気配が近づいた頃に、わたしは天王はるかことセーラーウラヌスと、パートナーとなった。わたしは彼女と知り合う前からはるかに憧れていたから、願ってもないことだった。もちろん、そのために彼女の生活の多くが犠牲になったことを思えば、手放しで喜べることではなかったけれど。
はるかはあくまで“戦士としての”パートナーだから、休日にデートをするだとか食事に行くだとか、そういった付き合いがあったわけではなかった。ただ、使命のための調査だとか偵察だとか、いろいろな理由をつけて会うことはできたし、敵が現れれば二人揃って現場に参上した。パートナーになる前と比べて会う頻度が格段に上がったのは間違いない。
そうやって会う回数を重ねていれば、否応なく心はそれ以上の関係を求めてしまう。駄目だとわかっていれば尚のこと。
はるかと一緒の時間を過ごしたい。
隣に並んで歩きたい。
他愛ない話をして、笑い合いたい。
そんなささやかな、だけどいまのわたしにとっては到底難しくて叶わない願いを、気づけば自然と願うようになっていた。
考えてみればそれは、周囲の浮き足立った女子生徒とさして変わらない願いだったと思う。
「クリスマスの街は警戒すべきだと思うの。いつもより賑わっているし、歩いている人たちも気が緩んでいると思うし。いつ敵が現れてもおかしくないわ」
わたしははるかにそう伝え、警備のつもりで二人で街を歩こうと提案した。はるかは少し驚いた顔をしたけれど、あっさりと同意した。
「ああ、みちるの言う通りだ。そうしよう」
かくしてわたし達は、十二月二十四日の夜、二人きりで会う約束をした。
……の、だけれど。
結局わたしたちはその日の夜、街から遠く離れた場所で敵の気配を察知し、その敵を追う羽目になった。
クリスマスで賑わう街を警戒すべきだと考えたわたしの予想は、半分は当たっており、もう半分は外れていた。敵のターゲットとなったのが、まさに数時間前まではクリスマスの街を浮かれ気分で歩いていたであろう恋人同士の片割れだったので、そういった意味では当たっていたと言える。だが、そのターゲットが街からずいぶん離れた場所で襲われたのは予想外のことだった。大騒ぎにならないよう敵が気を遣ってくれたのだとすれば感謝をすべきかもしれないが、無論そんな意図はないだろう。わたしたちの裏をかこうとしたか、あるいは大勢の人がいる場所での騒ぎは敵側にもリスクがあることだったのかもしれない。
大急ぎで現場に向かったものの、あいにく現場は都心から数十キロ離れた郊外。電車にしろ車にしろ混雑は避けられないし、敵の動きや明確な位置も定かではなかったから、乗り物を使った移動はあまり現実的ではなかった。
わたしたちは変身して現場の方角へ向かった。変身すると移動時のスピードはもちろんのこと、ジャンプ力もかなり上がる。疲労も軽い。人通りの多い場所ではビルの屋上を伝っての移動もできるし、平坦な道では高速移動も可能だ。それでも、数十キロ離れた現場に向かうには一時間近くかかった。いくら疲労が軽減されるからとは言え、焦燥感に追われながら走りっぱなしで向かうのはいささか身体に堪えた。
敵は人通りの少ない道沿いにある、寂れた神社にいた。人目につかない場所にいてくれたのは好都合だった。それに体格も小さく、並外れて強いと言うわけでもなさそうだった。だが、一緒にいた恋人を人質として抱きかかえていたのが厄介だった。直接攻撃を加えようとすれば間違いなく人質にも危害が及ぶ。さらに、体格が小さい分非常に動きが速かった。人質を抱えたまま神社の敷地内を駆け巡り、木々の間を抜け、拝殿から本殿、社務所の屋根をひょいひょいと伝う。人質が落とされてしまわないか何度もひやひやした。離れた場所から攻撃を放つことが多いわたしたちにとって、狙いの定めづらい敵ほど戦いにくいものはない。わたしたちは苦戦を強いられた。
結局わたしたちは、現場についてからまた一時間以上、敵に翻弄されることとなった。最終的には敵以上に速い脚を持つウラヌスが、相手の動くパターンを見極めて先回りすることでどうにか追いつき、脚を引っ掛けて転ばせることに成功した。その隙にわたしは人質を敵の手から引き離す。身軽になった敵が逃げようとしたところをウラヌスが羽交締めにした。
「今だ! ネプチューン!!」
わたしは気絶していた人質の女性を木の根元に下ろすと、さっと腕を掲げた。
「ディープ――――」
前方には敵と重なるようにして立つウラヌス。首を掻くように腕でしっかりと押さえつけ、微動だにしなかった。
敵の背後からじっとこちらを見つめるウラヌスと目が合った。
「やれ」
彼女がそう言うのが聞こえた気がした。
わたしは軽く頷き、頭の上に出来上がった大きな水球を放つ。
「――――サブマージ‼️」
攻撃は真っ直ぐ敵にぶつかった。大きな衝撃と共に、水が弾けて一面に雨のように降り注ぐ。一瞬視界が遮られたあと、敵がまだ同じ場所で立ち尽くしているのが見えた。
その背後に、ウラヌスの姿は見えない。
「……ウラヌス」
瞬時に、ひりつくような焦りが胸を過って心拍数が上がる。視線を動かしてその姿を探そうとした瞬間、聞き覚えのある声が頭上から響いた。
「ワールド――――」
ハッとして視線を上げると、ウラヌスが本殿の屋根の上から高く跳び上がり、片手を上げ落下の勢いのまま敵に攻撃を叩きつけようとしているのが目に入った。その場に立ち尽くしていた敵も、ウラヌスに気づいて顔を上げる。
あの勢いはまずい。
相手は元々人間だ。
死ぬかもしれない。
先ほどとは異なる種類の焦りが喉元まで迫り上がってきて、わたしは咄嗟に前に駆け出した。
「ウラヌ――」
「シェイキング!!」
わたしが叫びかけた声も虚しく、ウラヌスは素早く敵に攻撃をぶつけた。目の前で閃光が弾ける。敵がウラヌスを見上げた顔面に真っ直ぐ攻撃が当たり、すぐにその姿は見えなくなった。砂埃が舞い上がり、わたしは思わず両腕で顔を覆う。
やがて砂埃が晴れた後、敵がいた場所に横たわる一人の人間が現れた。おそるおそる近づいてみる。わずかだが肩と胸が動き、その人が生きていることを悟った。
「よかった……」
「ネプチューン、躊躇ったろ?」
安堵するわたしに、ウラヌスは言った。わたしは俯いたまま答えず、横たわっているターゲットを見つめていた。
全力で攻撃したつもり、だった。
敵が人間であることも、ウラヌスが背後にいることも、攻撃の手を緩める理由にはならない。躊躇って中途半端な攻撃をすれば、却って自分の身に危険が及ぶ。それはこれまでの戦いで十分にわかっていたことだった。
なのに。
わたしは込み上げてくる何かを抑えるつもりで唇を噛み、ターゲットの側に跪いた。その身体を起こそうとしてはたと気づく。
「この人……」
厚手のロングコートに包まれた身体は、近づいてみると思ったよりも小柄で、線が細い。短い黒髪から覗く耳には、金色に光るピアスが見えた。その下に続く首筋は華奢で色白だった。
ウラヌスも近づき、わたしがターゲットを抱き上げようとするのを手伝った。その身体は想像していたよりも軽く、柔らかみを感じた。おそらくわたしが思っていたことにも気がついていたとは思うが、何も言わなかった。
人質となっていた女性と共に、ターゲットを境内の階段に並べるように立てかけた。衣服や身体に汚れと小傷はついているが、大きな怪我はなく呼吸も規則的であることが確認できている。
「今夜はそこまで寒くないから大丈夫だろう」
ウラヌスは、人質の女性が身につけていた大判のストールを解き、二人に巻きつけるよう付け直した。
寄りそって穏やかに眠る二人を背に、わたしたちは現場を後にした。
「守ろうとしていたのかもしれないな」
帰り道でウラヌスはそう言った。わたしは頷く。
異形のものに姿を変えられてもなお、パートナーを手放そうとしなかった。それはわたしたちに対する抵抗ではなく、大切な人を傷つけたくない、奪われたくない、そんな気持ちの表れだったのではないだろうか。
ターゲットは、最後までパートナーを守ろうとしたのだ。突然幸せな時間を邪魔され、無理矢理に姿形を変えられてしまったにも関わらず。
そう思った瞬間に、わたしは胸が押しつぶされるような苦しさを感じた。同時に、もし“彼女”が元の姿に戻ることができていなかったら――自らの手で殺めてしまっていたら――と思うと、脚が震えるほどの恐ろしさを感じた。
「……無事に、帰れているといいわね」
わたしは、心の底から、そう言った。
そんなこんなで、自宅に帰宅したころには身も心もすり減っており、時間もずいぶん経ってしまっていた。手足に鉛をつけているのではないかと思うほど身体が重く、自室に入ってからもしばらく動けずにいた。そうこうしているうちにサンタクロースがやってくる時間となってしまったというわけだ。
どうにか身支度を整えて、きちんとベッドで休みたい。そう思って立ちあがろうとした時、腕につけた通信機が鳴り、心臓が跳ね上がった。
何かあったのだろうか。まさか、こんな短いスパン時間でまた敵が現れたのだろうか。わたしがぼーっとしている間に、気配を察知しそびれてしまったのだろうか。
目まぐるしく思考しながら、わたしは慌ててはるかからの報せを受けた。
「どうしたの? また何か……」
「……メリークリスマス」
はるかの低い声でそう聞こえ、わたしは思わず固まってしまった。数秒の間が空く。
「ごめん。もしかしてもう寝てた?」
はるかが慌てて取り繕うように言ったので、わたしははるかに見えるわけでもないのにその場で首を大きく振って答えた。
「……いいえ」
また、数秒の間が空いた。はるかの小さな息遣いが聞こえる気がした。この通信機は、小さいのにとてもよくできている。どういう仕組みなのかさっぱりわからないが、もしかしたらわたしの鼓動もはるかには届いているかもしれない。
やがて、はるかが口を開いた。
「あのさ。よかったら明日……じゃなくて今日だな。また出てみないか? 街に」
「え?」
予想していなかった言葉に、わたしは言葉を返すことができなかった。
これまでの傾向から、一度敵が現れると三日以内に再度出現することはなかった。敵側にも何かしら準備や狙いがあり、頻繁に現れることができないのだろうというのがわたしたちの見立てだった。だからこそ、いまはるかから連絡がきたのもイレギュラーなことでとても驚いたのだ。はるかの申し出の意図がわからず、わたしは尋ねる。
「どうして?」
「えっと……まあ、偵察……かな」
曖昧に濁すはるかに、わたしはまた少し躊躇った。
敵が現れる可能性が低いことを考えると、きっと偵察をしたところで空振りに終わるだろう。先ほどまでの疲れ具合を考えると、無駄足は避けたい気持ちも大きかった。とはいえ、絶対に敵が現れない、気配を見せないと保証されているわけでもないから、はるかの提案に賛成する気持ちもあった。
何より、わたしは心の中で、はるかに会える口実をとても喜んでいた。はるかと二人でクリスマスの街を歩けるというのは願ってもないことだ。さっきは敵に邪魔される形になったけれど、次こそはその心配をせずゆっくり楽しめるかもしれない。
即答しなかったわたしに、はるかは気を遣ったのだろう。
「疲れているだろうから、無理にとは言わないけど。でも……せっかくのクリスマスだから、たまには息抜きがてらゆっくり歩いてみるのもいいかなと思ってさ」
「そうね。ええ、とてもいい考えだと思うわ」
自分も疲れているだろうに、こちらのことを心配してくれるはるかの優しさを喜ばしく思いながら、わたしは「あれ?」と思った。
さっきは「偵察」と言っていたのに……。
気づいてから、急にドキドキと胸が高鳴り始めた。思わず、口元にかざしていた通信機を少し遠ざけてしまうくらい、自分の鼓動がうるさく感じた。
「じゃあ、また」
「ええ。おやすみなさい」
最後の声が震えているのが悟られないか不安になりながら、わたしはそう言って通信機のカバーを閉じた。
はるかとの通信を終えてからも、わたしはまた少しぼーっとしてしまい、動けなかった。
はるかがどういうつもりで、また会おうと提案したのかはわからない。わたしが今日の戦いで堪えていたことに気づいて気分転換しようと誘ってくれたのかもしれないし、はたまた、本当に偵察のつもりだったのかもしれない。
けれど。
もし少しだけ、ほんの少しだけでも、わたしに会いたいとか、クリスマスの街を一緒に歩きたいという気持ちで誘ってくれたのだとしたら……?
わたしは急に身体がそわそわとしてしまい、ベッドに思い切り身体を投げ出した。先ほどまでこれっぽっちも動きたくなかったのに、急に気分が高揚してどうしようもなくなってしまう。誰にも見られていないのに、緩んでしまいそうな頬を両手で押さえて隠した。そうでもしなければ、いま味わった喜ばしい感情が、緩んだ部分から全て流れ出してしまうような気がしたのだ。
そうだとしたら。
そうでなかったとしても。
わたしは数時間後に思いを馳せながら、嬉々と身支度を始めた。ようやく寝る準備をする気になったのに、今度は気持ちが昂って眠れないかもしれないと苦笑しながら。
ベッドに入る瞬間、ふと、さっき敵に襲われたカップルを思い出した。小綺麗な衣服に身を包み、麗しく化粧を施した二人を見れば、共に過ごす時間のために丁寧に準備されたものだと一目でわかった。
あの二人の幸せが永く続くことを願いながら、わたしは目を閉じ、長い一日に別れを告げた。
その夜、プレゼントを持ったサンタクロースがわたしの元に来なかった代わりに、真っ赤な衣装に身を包んだはるかが夢の中に現れたのは、また別の話。