夕陽に染まる東京湾を横目に、はるかの愛車は流れるように進んで行く。
行先は決めていなかった。ただ、使命と共に過ごしたこの街を出て、ゆっくりと過ごしたい。それがはるかとみちるの共通認識であった。ハンドルを握るはるかも、助手席に座るみちるも、自分たちが向かう先について口に出すことはなかった。
その日ふたりは、地球の命運を懸けた大きな戦いを経て赤子に戻った土萠ほたるを父親の元に返し、自分たちの主君である月野うさぎとの対峙と、和解をした。これが正しい選択だったのか、最後までふたりにはわからなかった。正しい選択だったのだと思い込み、それを行動で示すことで自らの気持ちを納得させようとした、と言っても良いかもしれない。
ともあれ、ふたりは晴れて使命から解放されたのだ。自分たちの青春と夢を奪い、戦いに縛りつけていた使命から。
だが、はるかはこれで終わりではないと思っていた。
もう一つだけ、やるべきことがある。
「少し話そう」
前方から視線を逸らすことなく、唐突に、はるかは言った。
「ええ」
みちるは答えた。
穏やかな波音の聞こえる公園で、はるかは車を停めた。まもなく沈みゆく夕焼けに染め上げられ、海も空も街も幻想的な色を織りなしている。近くにはいくつか商業施設があるが、平日の夕方とあって人の姿はあまりなかった。人が少なくひらけた場所はこれまでの経験から敵に狙われにくい、あるいは狙われたとしても対処がしやすいということもあり、はるかはなんとなくほっとしてしまう。直後、本当はもうそんなことを考えなくても良いのに習慣でつい頭に浮かんでしまったことに気づいて、心の中で一人苦笑いをした。
「こっちがいいわ」
車を降りて海辺に近づいて行くと、みちるが向かって右側を指差して言った。そちらには、さらさらとした人工砂でできた海岸がある。はるかが同意を示すと、みちるがやや前を行く形となり、ふたりは砂浜に出た。
「砂浜なんて久しぶりね」
みちるはくすくすと笑って、自らのシューズを脱ぎ裸足となった。それから足先で感触を確かめるように砂浜を撫でる。日頃から大人びて見えるみちるが、突然履物を脱いで裸足となり砂浜を楽しむのは、どこか意外にも見える。だが、たまに少女のように無邪気になる姿は、実ははるかが好む彼女の一面でもあった。何より、穏やかな日常を取り戻したことを感じさせ、はるかの頬は自然と緩んだ。
砂と戯れるみちるを、はるかはしばらく眺めていた。見ていて全く飽きることはなく、永遠にこのままでいても良いと思ったくらいだった。しかし、それを目的としてここに立ち寄ったのでは無い。
「みちる」
はるかは呼びかけ、エスコートするように手を伸ばした。
「これから、僕と一緒に来てくれる?」
みちるは、顔を上げてはるかに向けて微笑んだ。
「あら。どちらまで?」
「決めてない……けど、僕はきみが望む場所に一緒に行きたいと思っている」
はるかは手を伸ばしたまま言った。みちるはまだその手を取らず、何か考えるような様子ではるかをじっと見つめていた。
やがてみちるは口を開いた。うっすらとだが緊張を孕んだ表情で。
「わたしが一緒で、いいの?」
みちるの言葉に、はるかは驚いたように軽く目を瞠った。それから、少し何かを考えるような表情になった。みちるに差し出した手を一度降ろし、海に視線を向ける。何かを省みるような表情で、はるかは呟いた。
「……きみはずっと、僕じゃなくてウラヌスが好きなんだって思ってた」
今度はみちるが驚いたように眉を上げた。
「はるか、それは……」
みちるが言いかけたのを遮るように、はるかはゆっくりと首を振った。
「僕が戦士だから僕に近づいたわけじゃない、とみちるは言ってたね。でも、きみはどうやら僕よりも前世の記憶を多く持っていたようだし、戦士になったのも僕よりも早かった。何かの導きがあってのことだと、ずっと思っていたんだ」
はるかは海に向けていた視線を、一度みちるに戻した。その表情はみちるが今まで対面したどのはるかよりも穏やかだった。使命を受け入れる前の拒絶や使命の渦中にいる時の険しさといった、はるかの表情を固く強ばらせていた全ての要因が、今は消え去っているのだとみちるは感じた。
「みちるがどれほど僕に対する好意を示してくれても、きっときみは僕の中にいるかつてのウラヌスに焦がれているんだろうと思っていたんだ」
はるかは軽く眉を下げて微笑んでから、また海の方を向いた。夕陽はとっくにビルの陰に隠れ、オレンジだった空に藍色が流れ込んできていた。
みちるは軽く俯いた。
「そう思わせてしまったのなら、それは他ならぬわたしのせいだわ」
「それは違うよ」
みちるの言葉を、はるかは即座に否定し、首を振った。そしてその次の言葉を、やや迷うように、躊躇いがちに口にした。
「僕はずっと、自分を認めることができなかった。虚勢を張っていたけど、自分がみちるに相応しい自信がなかったんだ。前世のウラヌスに嫉妬していたんだよ。」
みちるは瞳を震わせ、はるかをじっと見つめていた。はるかはまた視線を遠くに向け、海の向こうに見える都会のビル群や海橋を眺めていた。
「……笑っちゃうよな。僕は使命にかこつけて、きみを恋人のように扱ってた。その方がいろいろ都合がいいからと言い訳をしてたんだ。コンテストに出たりもしてさ。
本当はウラヌスではないときにも、きみが僕のパートナーだったらどれだけいいかって……」
ゆっくりと紡がれるはるかの言葉を、ひとつひとつ噛み締めるようにみちるは聞いていた。次第にその瞳は潤み、そっと口元に手が添えられる。まるでそうしていないと、驚きと喜びが零れ落ちてしまうとでも言うように。
「でも“あの時”……みちるが、僕を呼んでくれたから」
あの時。それがいつを指しているのか、明示されなくともみちるにははっきりとわかった。
ふたりの運命を変えた海の大聖堂。ウラヌスがその胸に敵の銃口を突きつけられた瞬間、ネプチューンは自らの戒めを破り、その身を呈してウラヌスを救おうとした。深手を負ってふらつきながらも咄嗟に口から出たのは、戦士としてのパートナーの名前ではなかった。
「みちるはずっと、ウラヌスじゃなく僕を見ていてくれたんだね。…………あの瞬間まで気づけなかったのは情けないと思ってるけど」
はるかは苦笑いをしながら自らの行動を省みた。
時が止まったかのように、ふたりはじっと見つめ合っていた。はるかは相変わらず穏やかな表情で。みちるはそっと口元を押さえたまま。その目尻からは今にも雫がこぼれ落ちそうになっていた。
やがてみちるは俯いて、小さく首を振る。今の自分の表情を、はるかに悟られたくなかった。
元より、叶わぬ恋のはずだった。
はるかの存在を知ったのは、まだ自分が戦士であることも架せられた使命のことも知らなかった遠い過去のこと。様々な偶然が積み重ならなければ知りえない存在で、どこか境遇は似ていながらも互いに絶対に交わることのない世界にいた。一目惚れなどという浮ついた生易しい言葉で自分の経験を表現したくはなかったが、それ以外に表しようのない、強く新しい感情をみちるにもたらした。
使命を理由にしなければ進んで声を掛けようなどとは露ほども思わなかっただろう。一世一代の勇気を振り絞って彼女に近づいた時の、胸が痛くなるほどの高鳴りを、みちるは昨日の事のように覚えている。
――例え使命のためでも、傍にいられるだけで十分幸せだと思っていたのに。
思いがけずその想いが報われてしまった瞬間、みちるは自分がどんな顔をすれば良いかわからなくなってしまった。
「みちる」
俯いたままのみちるに、はるかは一歩近づいて声をかける。そしてもう一度、彼女に向けて手を伸ばした。
「“セーラーウラヌス”ではなく“天王はるか”として、ちゃんと言いたかった」
その言葉に、はるかが襟を正したのだと察したみちるは、顔を上げた。朱に染まる空を背負い、碧の瞳でまっすぐこちらに見つめ手を伸ばすはるかは、みちるが初めてその存在を知った時と同じように、いや、より一層の輝きを放ち、みちるの心を揺さぶった。
「これからも、僕と一緒にいて欲しい」
それは、戦いのパートナーではなく、人生を共に歩むパートナーとしての、永遠の誓い。言外に持つ大きな意味に、みちるの答えは――。
「……はい」
一言、そう答え、彼女のその手を取る。柔らかく重ねられた手を、はるかは優しく引き寄せた。
グローブ越しではなく素のままふたりが手を握り合うのはあの日以来――まさに、みちるが斃れる間際にはるかの名を呼んだあの日――無限学園の傍に借りたマンションの一室で、迷いの最中にいたはるかの手を、みちるが握ったあの瞬間以来だった。
「みちるが、好きだ」
低く、風が震えるようなささやかな声が耳元を掠め、はるかもまた自分と同じように、あるいはそれ以上に緊張と決意を持ってここに立ち、自らの思いを打ち明けたのだと、みちるは気づいた。
――キス、される。
透き通った一対の瞳がゆっくりと近づくのを、みちるは感じた。
穏やかに凪ぐ海も、あかね色に染まる空も、黒く塗りつぶされたビル群のシルエットも、もう何も見えなかった。ただ、いつになく真剣で優しいはるかの眼差し、その一点から目が離せなかった。
はるかの視線は、みちるに問いかけているように感じられた。答える代わりに、みちるはゆっくりと目を閉じる。
ややあって、甘やかな温もりがみちるの唇に舞い降りて、ほんの少しの時間留まったあと、すぐに離れた。海辺の涼しげな風にあっという間に溶かされてしまうほど、拙くかすかな、だけどとても優しく力強い温もりだった。
ふたりは見つめあって、微笑んだ。
夕陽に代わって湾内を彩り始めた街灯りが、まるでふたりを祝福するかのように瞬いている。
「行こう」
はるかが再び差し出した手に、みちるはしっかりと自らの指を絡めた。
風が運ぶさざ波の音に見送られ、ふたりは海を背に歩き始めた。